昭和五十二年八月二十五日 朝の御理解第九十二節
神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きるのと遅く起きるのとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。
余り人が助からん教会の先生方が一番嫌いな、これは御理解です。もうはっきりと教祖様がおっしゃっとるですね。人が助かる教会、助からない教会、神様は金光大神の御取次を頂いて、天地金乃神様の働きを受けるのです。
けれども、守り守りの力、いわゆる天地金乃神様から御信用を頂いておる度合い、神様の御信用の度合いで人が助かる助からんのことになってくる。だから教会長たるもの、いよいよ力を頂かなければ出来んことになります。いうならば神様の御信用を受けるためには、どういう在り方になったらよいか。神様の御信用、私はここんところを一般の皆さん、信者さん方の上にあてはめたら、どういうことになるだろうかと思うのですけども、取次者が天地金乃神様の御信用を受けなければ、人が助からない様に、なら信者が助かるということ、信者自身も力を受けるということは、私は教会長から信じられる信者氏子にならなければいけないという事になるのじゃないでしょうか。いうなら先生から信用が受けられる。あっちはなかなか黙っておられるけど、なかなか真がしっかりしてある。また言う事することが一致している。信心が手篤い、あの人なら間違いがない、という様にです。私は信じられる氏子にならせて頂くということが、信者皆さんのおかげを受ける。それが基盤になったおかげでなからなければもろい。先生から信用は受けとらんけれども、おかげだけは頂いとるというのでは、これは自分のものではないことになります。
昨夜私は、何時頃だったでしょうか。十二時ちょっと前だったでしょうか。自分の部屋で御祈念さして頂いとりましたら、フクロウですね。コウズとこの辺では言います、を頂きましたから、私はまた寢衣のままでしたけれども、昨日はまた改めて、こうお広前を一遍通り回らせて頂いた。まあどこもここも電気はあかあかとついて、まだ丸少なんかは今日の<あれ>をしとりましたが、例えば修行生の方のが、あかあかとついとるけんで、まだ寝とらんのと声を上げたけれども、あわて回って障子を開けんのです、向こうから。だからああ覗いちゃいかんと私は思うてから、早う寝らんの寝らんのと言ったことでしたけれども、ここには皆四人か五人、今居らなければならんのに、一人も居ないのです。何処さね行ったじゃろうか、しかも、いうならばここに預かっている宮崎からの二人の、四、五日泊めて頂きたいと言う人が居ったから、こちらはやっぱりそういう一つの責任を感じますからね、居りませんから。どこさね行ったじゃろうかと思うて探して頂いたんですけれども、どうも私の方の大坪の家には、大体そういうめぐりがあるです。もう朝起きはしうごつなくて、夜更かしはいつまででんする。昔からこれは私共の欠点でしたから、やっぱりここの修行生の方達にもそういう風な風があるわけです。ですから朝は眠たい、昼はどこかこう体がだるい様に、研修しとっても生き生きとした研修はいっちょんこの頃出来ん、と思いよったら、皆がコウズになっとるからだと私は思いました。なるほど御祈念が九時に終わります。それから一時間大秡信行を致します。ですから十時、もうどんなに遅くとも十一時にはもうどこも消灯が出来て休んでおらなければならない。それにいつまでたっても何をしておるのか、何を話しておるのか知らんけれども、これは結局私の家のめぐりだから、私の子供と、いうなら私を親というなら、私の子供達が皆、いうならばコウズになっておる。そして昼の大事な、朝の大事な時間がもうやっとかっと。それで御祈念中は眠ってしもうとるといった様なことに。もう私は外あたりなら、どがしてやかましういうじやろうかと。もし私が店の主人で、従業員とこういうなら、とてもとてもそりゃ電気の使い方というか、もうこの冷房なんかの関心というか、そりゃもう本当にろくそな事です。特に共励殿の研修室なんかもう私だん見とってから、身がジンジンする位に。あれだけのお水がどんどん出るでしょうが。電気だけじゃなく水をあれだけ無駄に使うだけでもというて、どんなに無駄に使っても、そのやはり暑い時に使うのは問題じゃない。神様はなんぼでも許して下さる。先日なんかは、何か会合しとりましたけれども、あんまりいつまででもジャンジャン出よるけん、家内にとうとう言いにやりました。もう今日はそげん暑くもないのだから、冷房なしでよいのじゃないかと。あれだけのお水を使うだけでも、いうなら電気は目の【 】に分からんからよいけれども、水はあそこに大きな蛇口からジャンジャン出よりますからね、水冷ですから。それを本当に無関心だなとこう思うです。
だからこういう目の粗いことでは、私は神様の御信用は受けられんと思う。心行心行と言うて、心行というのは必ず便所のことやら風呂場だけのことじゃない。自分の心を神様に向けておれば、お粗末心御無礼になってはならないね。こんなことでは私はおかげは頂けれんね。「朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子の参詣の早い遅いにかかわるぞ。」と。だから、只ならもう眠うして、昨日、一昨日でしたか、幹三郎が一緒についてきてます。そしてここへ控えに入ってから私に頭をこう下げた途端に、もう眠ってしもうとる。丁度三十分間、眠かろうと思うて起こしもしませんでしたけれどもね、私におじきした途端に、もう眠っとるね。もう朝という時間はもう、それこそ生き生きとした、もう本当に朝の一時間というのは昼の三時間、いやより以上に匹敵する位な気持ちで朝を大事にしなけりゃ。いや起きてはおる、出ては来ておるけれどもです、また出て来んともおる。もう朝起きが一番辛か、そげな奴に限って夜はいつまででんよか。そげんとに限ってもういつまででん馬鹿話どんしとるなら、一時まででん二時まででん起きとるね。今日のここんところを頂いてからです。なら起きたならば神様へ向こうたが最後、頭つけたら途端に眠るのじゃなくてです。生き生きと神様と交流する様な信心させて貰わなければ本当に惜しい事だと思うです。
昨日、一昨日合楽中ですね、或る方かどなたでしたでしょうか知らん、芍薬のお知らせを頂いた。何か大変おかげを受けなければならないことがあった。ちょっと私は度忘れしましたけど、だから本当にそうしておかげを頂かなければならんならばです、立ち上がれと。なかなか良いものを持っとるから、立ち上がったらそれこそ人がそれこそ見とれる様なおかげも頂けれる信心も出来るぞ。いかに良いものを持っておっても朝はお参りはしうごつなか、という様なことではです、おかげにはならんぞと。立ち上がれ、それこそ立てば芍薬の様な内容を持ちながら立ち上がろうとしない。
昨日、御用日誌を見せて頂きよりましたら、昨日、一昨日が高松順子さんが正奉仕でした。そして神様にお知らせを頂いたことなどをいろいろ書いておるとに、白牡丹を頂いたね。だから私は昨日研修の時に順子さんに申しました。あんたは体がそんな風で立ち上がるのには、いうならば人の手を借らなきゃならん様な体の状態だから、というて座っておれば十分御用が出来る。御結界に就いておれば。なら昨日、一昨日でしたか、十分御用が出来ておる。しかもこの人は一心を立てると、神様からすぐお知らせを頂く。だからそれこそ御結界に根が生えた様に座るということにならば、本当に人並みのことは実は出来んから、私はもう座るとが修行である、座るとが御用である。御取次者としては座ることが出来れば、親先生がいつも言われる様に、お道の教師と座り大根は座りのよかのがよか。もう早う替り誰かこんじゃろうか、来んともやもやしてこたえん。もう早う立とうごとしてこたえんごたる先生じゃ、神様の御信用なんかとても頂けませんし、また人も助からんです。いうなら御結界を明けとうしに明けとる様な教会では人は助からんです。それでは力がつかんことが分かるです。だからこの人はそれこそ座れば牡丹といわれる位なおかげを頂けよということだという。だからあんたが座って座り抜く、もう順子さんが座っておると、もう神々しいごたる、そして生き生きとお取次が出来る。そういう先生を目指さにゃいけんよというお知らせばい、と言うて申しましたことでした。それは人それぞれに立ち上がってよいともおりゃ、座り込んで良いともある。だからそれぞれの、いうなら自分の信心、同じここで沢山修行します人達の上にもです。それぞれの立場でそれぞれの御用がありよります。
もうその人でなからんと出来んという御用を西岡先生なら西岡先生で、竹内先生なら竹内先生でなからねばならん。それぞれの御用を持っとるから、それぞれの御用の中に責任を持ってです、私はおかげを頂くならもうこのことだけは、この修行生に頼んどけば大丈夫ということになるのじゃないでしょうかね。そこに私は大丈夫ということは信用がついて来るんだとこう思うのですね。だから本当に取次者が神様の信用を頂かなければ人が助からない様に、御信者の皆さんは先生の御信用が受けられる信者氏子にお取立てを頂かなければです。私は本当の信心が頂けないと思う、おかげは頂けても。それもそれぞれの立場立場においてからのことでございます。神様は一体、それで大変おかげを頂く人、頂かない人。
昨日の研修の時に、丁度鹿児島の佐田さんからお礼の手紙が来ておりました。それを読ませて頂いた。もう本当に嘘の様なお話なんです。久留米の稲垣さんの弟さんになります。「大祭前からここで四、五日御用を頂いた。もうそれこそ最後の後片付けまでして帰らせて頂きました。もう有難うして、有難うして、朝は一時二時頃まで起きて、朝の三時半のお出ましには出らせて頂いたけれども、疲れというものを全然知りませんでした。」という風なことが書いてありました。そして「そのおかげを頂いておること。鹿児島にもどうでも支部を作りたいという願いを持っております。今日の合楽祭りには是非出て来たいと。スーパーの店の件も、最初六月の中旬には三千万円でしたが、親先生がもう少し研究しなさいと言われ、いろいろとあちらこちら調べた結果、確か二ケ月で二千四百万円に下がりました。先日は二千八百万円で売れていて、手付けも二百万円置いていた人があるのですが、なぜか売主がその人には売りたくないと断られ、十八日の夜に行った時には、売主がいろいろと何人かの人が買いに来られたが、佐田さんに初めて見て、この人に売ろうと思ったそうです。売主も二千八百万円で売れるところを、私に売ったために二千四百万円になったと言っておりました。今まで売れなかったこと。私に売ると言われたこと。また銀行には二百万円しか預金がなく、二千八百万円を貸してくれると言われたこと。本当なら《三倍》しか出さない。一千万円持っている人は三千万円貸す。私の様に二百万円しかない人は六百万円しか貸さないのが通常だそうです。どれをとっても何を考えても神様のお働き、親先生のおかげと感じずにはおられません。親先生有難うございます。いつものことですが、合楽教会を出ると、また来たい、今度はいつ来れるかなと思います。またお参りが出来ることを心からお願い致します。親先生有難うございます。」とこれは最後のところだけですけども、この手紙を読ませて頂いたら、昨日は丁度秋山君が当番でした。その人は久留米商業を出てから銀行へ勤めておりました。それを途中で惜しまれるのを辞めて、そして学院に修行に行っているわけです。彼が言うんです。絶対そげなことはなか。銀行法から言うてそげなことで金を貸す筈はなか。〈そうばってん、これはしらごつかやなかろうなけんで、やっぱり本なことじゃあるじゃないの〉。例えばなら宮崎の網さん達の場合なんかでもそうです。とても網さんなんか一銭の預金もなか、宮崎中の銀行が貸し手のないという人が、信用金庫が貸したという事実。それからのことなんかね、だから結局、誠二君、あんたはもうあんたは金銭のお繰合わせは、それしか頂かれんばい、と言うて話したことでした。いわゆる神〈情〉なんですね。
昨日丁度研修の時に、熊本の阪本さんも一緒に研修に加わっとりましたがね、その大学に行って栄養学を専攻しておられた。ですから、あれがいうならば栄養になる、これは栄養にならんといった様な観念では、だからおかげにはならん。だからあんた達がそのことをここにお届けに来ましたからね、人に教える時には、この食物はこういう栄養があるんで、カロリーが何のあれのと学問上ではそうだけれども、神様のおかげを頂いて、有難いと思うて頂いたら、皆が栄養になりますよということを、教える時には必ず付け加えときなさいと私が申しましたね。私は栄養士ではあるけれども、何でも有難く頂くから何でもが栄養になるのです。そこに信心のある者とない者の違いがあるんです。銀行法を、例えば経理なら経理をあんまり厳密にいうなら、知っとるから、そげなことで銀行に借りに行くことも勿論出来ませんでしょうが、また貸すことも絶対ないという事だけしか分からん。ならそれだけしかおかげは受けられない。だから秋山君が、こういう事実があるということから、その観念を振り捨てて、次の信心に飛躍した時に今いう、いうならば夢にも思わなかった様なおかげということになるんです。
なるほど教祖様が学が身を食うというが、学問があるためにもう観念が出来てしまう。だからおかげが受けられない。なるほど学が身を食う。今の金光様の先生でです、御比礼の立たん教会というなら、大概大学出です。そしてもう文章に書いたり、話したりすることは素晴らしか。そいけん家の教会はどんどん人が助かっとるかというといっちょん助かっとらん。これはもう絶対そげんです。もう大学出の先生のところじゃ人は助かっとらんです、まずは。皆が皆というわけ。そこだから学問をもう一丁超越した神様の霊妙不可思議な働きにふれておる人はまた別ですよ。だからね、確かに学が身を食う。あの人の教会に参ったらおかげがある。この人の教会ではおかげはないと、それこそ無学の百姓であっても、私共の様に無学の商人であっても、私共何にも知らんから、かえってそのおかげだけの世界に入って行くことが出来るのじゃないかという風に思います。今日はとりまぜたお話を致しましたがね、まあとにかく神様からの御信用を受けるということはね、いうならば少しは抜け切った、昨日の御理解でいうならばです。天地の間に住む人間は皆神の氏子。その氏子におかげはやってあるけれども、天地の間に住みながら神のおかげをおかげと知らんと、おかげがおかげと分かるというところから、いうならば天地が歓び合えれるおかげ、天地が歓び合い、天と地が歓び合って、鶴亀の舞い遊ぶ様なおかげ、そういうおかげを頂くということはです。私共は観念を抜きにして観念から脱出して、神様のおかげの世界というものは、もう限りのない人智人力では分からない世界をです。私共は少しずつでも分かっていこうとするところから、神様の心が分かるところから神様の心に添い奉る行き方になる。
だから神様の御信用がつくのです。そこで家の先生は神様から御信用を頂いてあると皆さんが信ずるなら、なら皆さんが私のことをです、天地の親神様の御信用を受けてあると、皆さんがもし信ずるならです。私に信じられる信心を本気で一つさせて貰わなければいけない。それは人、人違います。けれどもこのことだけはという位な信心を一つさせて貰いたい。何もかにもとは出来んけれども、これだけはこの人に頼んどけば大丈夫と親先生が信じてくれる様な信心を頂きたい。どうもこの頃昼の奉仕がどうか眠そうな感じで、研修の時もどうかこう力のない、質問もない、只私が一人でおしゃべりするだけ。そして纏めておりません、纏めておりません。違わんそげんとは必ず寝とるとですよね。たった朝の御理解のこれだけんとば纏めとらんと言うとじゃもん。何人かが纏めておる。纏めておる人が発表する。それとても気迫がない、精気がない。これは、いうならば毎晩コウズになっとるからじゃないだろうかと今日は思いましたが、これは修行生だけのことではありません。信心させて貰うなら朝の時間を一番大切にしなければいけんです。朝の時間を大切にする生き生きとした心は必ず神様に通う心です。いうなら神様に信じられる心です。
これは私が本当にそう思うんです。これはもう大坪家のめぐり。だから家に修行に来た人達は、その私のめぐりに、いうならばやられておるのじゃなかろうか。そこを私はそれこそ泣き泣き辛抱しながら、ここをいわば克服したね。もう一日に七時間も八時間も寝らにゃんどんするちゅうなら、腰が痛うしてこたえんという位におかげを頂いとる。だから私は家の修行生に言います。金光様の先生をするなら、一日に五時間熟睡したらもう十分という位の、いっちょおかげを頂かにゃいかんばいと。金光様の先生をするならね、そういう修行をしなさいよね。そしていうならば心がだらっとしとるから、電気がついとろうが、水道が出よろうが、一つも、只風呂場だけばキチッとすりゃよか、便所だけをキチッとすりゃよい。下駄だけ揃えりゃよかだけのことじゃないです。心に心行さして頂いておるから、それが出来るのであり、そうせずにはおられないという信心を身に付けて行かなければいけない。私は合楽ではこれだけの人が助かっております。だからその助かっておる実証をしておるのですからね。家の親先生はまあ神様から信用されとるかどうか分からんけれども、信用されておらなければこれだけの御比礼が立つ筈がない。神様の御信用を頂いておられる先生として皆さんが頂いて下さるなら、それだけの働きが現れてきます。だからその、いうならば先生の御信用も受けられる、先生はどげな風な行き方をするが喜ばれるかということを焦点におかなければ、いかに合楽理念をマスターしたところで、それを行じなかったら何も役に立ちません。合楽理念にはそんなに朝の時間を大切にせろとはあるけれども、夜の時間を、夜更かしをなんかということは書いてない。これでは本当の心行が出来る筈がない。そういう心行が出来た時にです。例えば本当に学問と信心はもう違う。とにかく理屈というものは取らなければ、いうならばそれはそのまま観念を取るということだから、なら秋山君に昨日申しました様に、あんたが金銭のお繰合わせを特別な銀行にお願いしよるといったって、あんたはそげなことは絶対ないと言いよるとじゃから、あんたはおかげを頂かれんばい。ならあんたがおかげ頂かれんだけならよかばってん、ならそういう金銭のお繰合わせを願いに来た人にです。そりゃとてもいかんがのち、信者に教えにゃならんごとなってくる。そりゃ無茶ばいちゅうごつなってくる。ならお願いしとくから、銀行にいくら貸さんちゅうたっちゃ、行って見なさい。おかげを頂きましたということになってこないね。だからそこのところを私が、ならば私自身がコウズ、ふくろうであったけれども、そのふくろうがです、朝起きをせにゃおられない様なおかげを段々頂いて身に付いてくるということには、やっぱし修行があっとるわけですから、ここで御信心のけいこをなさる皆さんも、そこんところの稽古が一つ身に付いて、そして親先生の御信用が頂けれる信者にお取り立て頂かなきゃならんということになります。それではここのお広前だけのことではありません。自分の家に帰っても、ああこげなことしよるなら、親先生が必ず苦い顔をしなさる。それが心行ですからね。どうぞ。